恐怖心
よく、「なんで登山をするんですか?」と聞
かれるのだが、正直今だに本質的な答えがわ
からない。「エベレストに憧れた」から始ま
り、様々な理由が重なって登りに行くように
なったのだが、突き詰めていくと本質が何な
のかわからない。だから、本質を突き詰める
のはやめた。どうなるか全くわからない中、
目の前のことだけに無我夢中になり、少しず
つ進んでいたら、気がついたらいつのまにか
来週デナリに登りにいくことになっていた。
デナリを登りに行くことに対して、「全く怖
くない」と言えば嘘になる。憧れの山に登れ
るという「ワクワク感」がある反面、デナリ
の「伝統の重さ」や、どうなるかわからない
「天候不順」などのプレッシャーが重くのし
かかる。プレッシャーのことをいくら考えて
も状況は変わらないので、意識しないでいる
が、ふとした瞬間に「ゾッ」と「恐怖心」を
感じることがある。この「恐怖心」を味わい
たいが為に登山をしているというのもある
が、怖いものは怖い。
しかし、どうなるかわからない怖さに踏み込
んでこそ、初めて見える景色がある。その一
歩踏み込んだ場所にどんな「驚き」が待って
いるのか、その景色を見て自分がどう変わっ
ていくのか、という好奇心が湧く。その面白
さを知ってからは、「結果」(頂上)に対す
る想いは変わらないものの、それ以上に「過
程」から得られるものがもの凄く大きいこと
に気づいた。ギリギリまで追い詰められない
と得れないものがあり、そこに飛躍がある。
「頂上」に徹底的にこだわるなら、ヘリコプ
ターを使うことも可能であるのに、なぜ自分
の足を使って登りにいくのかと考えた場合。
「頂上」にたどり着くまでに、どのような過
程を経ることで自分が「納得」し「やりが
い」を感じるのかが重要であると言える。そ
こには「恐怖心」が人間の「美意識」を生ん
でいるのではないだろうか。「美意識」が生
むドラマに魅了されるがゆえに、それを求め
たくなる。「恐怖心」があるところに「心の
豊かさ」も共存しているのかもしれない。
どうなるかわからないことに一歩踏み込ん
で、過程にワクワクしながら、結果に報われ
なくても「継続」でき「納得」できることを
みつけられたら、人生はより豊かになってい
くような気がする。