真理の探求

最近、「考えていることは正しいのか?」、
「考えること
に意味があるのか?」、とモヤ
モヤすることが多くなったので
、物理学者の
大栗博司先生と仏教学者の佐
々木閑先生の対
談本を読んだ。


本のタイトルが「真理の探究」で、本の帯に
は「人生に生きる意味はない。」と書かれて
いるように、とにかく深い本だった。本書は
対談形式で、要所要所に両先生方の鋭い質問
が飛び交うので、科学と仏教のことにほぼ無
知な私でも読み倒すことができた。とてもじ
ゃないが、完全に理解できたとは言えない
が、モヤモヤしていたことがスッキリした。
そして何よりも、読めば読むほど驚きの連続
だった。この本がきっかけで、科学と仏教に
ついてもっと深く知りたいと思ったので、勉
強した上で再度読み直しながら理解を深めて
いきたいと思った。

下記、本で書かれていた内容の一部と個人的
な感想。

[「偏見や先入観というフィルターを取り外
し、できるかぎり正しく世界を見ることを通
じて、そういう道があることを確信させてく
れる。それが、物理学と仏教の共通点ではな
いかと私は思っています。」](p.19)

釈迦もアインシュタインも「正しく世界を見
たい」という思いが同じだった。

唯識と脳科学だの、マンダラと量子宇宙だ
の、つき合わせてみても意味がない。](p.23)

科学と仏教をつき合わせても意味がないこと
を前提にこの対談は成り立っている。

[ 宇宙に意味がなく、人間にはあらかじめ目
が与えられていないことを明らかにした ]
(p.33) 

宇宙と仏教の真理を追究してたどり着いた結
論が、「人生の目的はあらかじめ与えられて
いるものではなく、そもそも生きることに意
味はない」だった。

何も意味がないところから始まっているのだ
から、何を意味あるものとするか、幸福とす
るかは、自
分で決めるということ。(生まれ
て、ご飯食べて、死ぬだけで、十分)

私自身は、この考え方は受け入れられるのだ
ど、正直まだ何を意味あるものとして生き
たらいいのかわからない
状態だ。意味がない
ことをして生きても別にいいとも思ってい
る。家族、友人、将棋、山、景色、スポーツ、
本、音楽、映画、ご飯、コーヒー、ビールと
の時間を
幸福だと思っていることは確か。

[ 釈迦は大昔のあるとき、別の仏陀に会って、
「ああ私も、こんな人になりたい」と思った
です。](p.129)

釈迦でも憧れのロールモデルがいたことに驚
いた。(イメージ上の)憧れへの追究にも価
値があり、「憧れの人のようになりたい」と
思いながら生きることにも意味があるのでは
ないかと思った。(結果としてなれなくても)

[「科学の世界観は正しいかどうかが問題で
が、宗教のつくる世界観は、客観的真実で
あるかどうかよりも、自分の精神の支えにな
るかどうかが優先されるんです。](p.147)

今までの人生、都合よく価値観を変えていく
ことで、辛いことを辛くないにしてきたので、
この言葉が刺さった。

釈迦は、いかに「苦しい人生を苦しまないか」
を考えていたらしい。そのために、世の中を
正しくみようとしていた。

[ 私は科学者なので、あらかじめ、「これは
正しい」「あれは間違っている」と数条的に
信じることはありません。ではどう考えてい
るかと言うと、私はいわゆる「ベイジアン」
で、ベイス推定で信頼度を図ります。](p.15
3)

[「私は、物事は「正しい」と「正しくない」
の二択ではないと考えています。信頼度に
は、
「ほぼ確実に正しい」「正しそうだ」
「正しい
かもしれない」など、いくつものレ
ベルがあり
ます。これは要するに「正しさの
確率」の問題
ですね。](p.155)

本書を読んだ一番の動機は、考え方や価値観
正しさを科学的視点からつっこむとどうな
か?だったので、「なるほど!そういう見
方を
しているんだ!」と目からウロコだっ
た。(科学と仏教をつき合わせても意味がな
いという前提のもと)


0か100ではなくて、0〜100の確率的に考え
ながら、経験を通じて少しずつグレーを白に
していこうぐら
いの気持ちでいいのかと思っ
た。
々木先生が釈迦の教えによって苦から
救われる
と信じておられる度合いは、80%ぐ
らいとのこ
と。

最後に、この本を読んで。

人はいろんな「思い込み」に支配されている
んだなと思った。なぜか、この本を読んだあ
とは、力が抜けて、力がみなぎるような気が
した。